日本が経験した悲劇的な海洋汚染の歴史は、国内化学セクターと環境保護活動に大きな影響を与えてきた。この教訓は現在の取り組みにどの程度活かされているのだろうか。

世界第3位の出荷額を誇る日本の化学セクターは、海洋化学汚染の克服に向けた取り組みの鍵を握る存在だ。その理由は産業としての規模だけではない。世界的な生産拠点として急速に台頭するアジアで、過去数十年にわたって経済発展をリードしてきた歴史もその影響力を高めている。日本の官民両セクターは、海洋汚染の克服に貢献することが期待されている。

日本は高度経済成長の時代を通じ様々な公害に直面し、そこから多くの教訓を学んできた。世界に先んじて深刻な海洋化学汚染に見舞われた歴史は、化学セクターのあり方と環境保護に対する考え方に大きな影響を与えている。例えば1950〜60年代にかけて水俣湾に排出されたメチル水銀化合物は、中毒性の神経障害を引き起こし、少なくとも数千名の地域住民に深刻な被害を及ぼしている。しかし政府・自治体は、長年にわたって“水俣病”と工業排水の関係性を認めず、対策を講じなかった。

東京大学グローバル・コモンズ・センターのダイレクター石井菜穂子氏によると、水俣病に象徴されるように、“経済復興を最優先し、環境は後回し”にした高度経済成長期の価値観は、日本の環境保護に大きな爪痕を残しているという。化学製品の世界的生産拠点として台頭しつつあるアジアの新興国は、急速な経済成長と環境スチュワードシップの必要性がもたらすジレンマに現在も悩まされている。

社会・経済体制の移行を中心に研究活動を展開する同センターの観点から見ると、「水俣病の経験から我々が学ぶべき教訓の一つは、経済成長重視のアプローチがもたらす負の側面」だ。「新興国の中に、国民の健康・安全よりも経済成長を優先する国が依然として見られる現状は憂慮すべきだ」と石井氏は指摘する。

日本自身が歴史の教訓を十分活かしているかどうかについても疑問の余地がある。化学汚染が人体にもたらす破壊的影響が明らかとなり、経済発展が成熟期に差しかかる今、環境保護の重要性についてはコンセンサスが確立されている。また同国では世界有数の厳格な工業排水基準が施行されている。しかし“化学企業の責任ある行動”を評価するランキングでの国内化学メーカーのパフォーマンスは、依然として平均的なものだ。

石井氏によると、農地から河川経由で流出した化学肥料(窒素・リン)が海洋環境にもたらす深刻な脅威など、社会的認知が進んでいない“不都合な事実”は少なからず存在するという。

日本における化学セクターの現状

化学セクターは、世界第3位の経済大国日本で重要な位置を占めており、国内外におけるサステナビリティ向上の取り組みに及ぼす影響は大きい。

出荷額ベースでは輸送機器セクターに次いで国内2番目の、雇用者数でも食品・輸送機器セクターに次いで3番目の規模を誇る。

三菱化学・東レ・住友化学・信越化学・三井化学の5大メーカーによる年間収益の合計は860億ドル(約12兆円)超に上り、世界のトップ25社に名を連ねている。

だがエネルギー・コンサルティング会社Wood Mackenzieによると、日本メーカーによるサステナビリティ分野のパフォーマンスは世界的に見ても「平均的な」ものだ。世界の大手化学メーカー50社を対象として、懸念化学物質の使用状況やグリーンケミストリーへの投資などを評価するランキング『ChemScore』で、日本の三大メーカー(三菱化学・東レ・住友化学)はそれぞれC・C・C−の評価を受けており、東レは6位、三菱化学は9位、住友化学は16位にランクされている。

また世界的にも高いプレゼンスを誇る一方、アジア諸国が急速に台頭する汎用化学製品の分野では影響力が低下しつつある。「日本の化学セクターは、汎用化学製品のグローバル市場で構造的な停滞に直面している。主要ポリマー製品・中間製品分野における世界全体の生産量は2020〜2050年にかけて約80%増加する見込みだが、日本メーカーによる同時期の生産量は12%程度減少する可能性が高い」と指摘するのはWood Mackenzie 化学部門のプリンシパル・コンサルタント Kelly Cui氏。

日本の化学セクターにとって将来的な成長分野となるのは、高付加価値な工業用の特殊化学製品だろう。そして同市場でプレゼンスを高めるには、サステナブル・ケミストリーやネットゼロ移行などの分野で、ビジネス・環境課題の解消につながるイノベーションをリードすることが不可欠だ。

日本化学工業協会は提言書『カーボンニュートラルへの化学産業としてのスタンス』の中で、こうした取り組みについて言及し、「日本の化学産業が国際的競争力を保つ上で非常に重要である」と強調。「その実現に向けて、化学産業としては、より一層のプロセスの高度化や削減貢献の拡大の取り組みを加速し、資源循環型社会に向けCCU[CO2の回収・有効利用技術]・人工光合成やケミカルリサイクル等の技術開発・社会実装によって、エネルギーおよび原料由来のGHG[温室効果ガス]排出量削減に最大限努力する」と謳っている。

Wood Mackenzieが特に有望分野と考えているのは、石油化学セクター向けのCO2原料化だ。例えばトクヤマと三菱ガス化学は、工場から排出されるCO2を用いたメタノール製造・販売の事業化検討を行うことに合意し、2022年6月に覚書を締結した。一方、富山大学も同様の技術を活用し、主要化学原料の一つパラキシレンをCO2から製造する技術の開発を進めている。

Cui氏は、「日本の化学セクターがこれまで培ってきたイノベーションの伝統を活かせば、サステナブル・ケミストリー分野で独自のポジションを確立することもできる。これは業界・環境の両方に恩恵をもたらす大きな機会だ」と指摘する。

ここで取り組み成功の鍵を握るのは、日本の歴史的経験だ。

水俣病がもたらす教訓

水俣病の経験が遺したレガシーには功罪両面がある。政府対応のまずさについては数々のエビデンスが明らかとなっており、水俣病関西訴訟の最高裁判決で国の責任を認め、賠償金支払いが命じられたのも発生から約50年がたった2004年のことだ。しかし、環境保護の緊急性は判決が確定する以前から認識され、政府・企業・コミュニティレベルの様々な取り組みが行われている。

特に大きな分岐点となったのは、1971年に施行された水質汚濁防止法だ。同法は工業排水に含まれる化学物質に対して世界有数の厳格な基準を確立。例えば、有害金属であるカドミウムの排水基準は、現在0.03mg/Lに定められている(米国環境保護庁の基準は1.2mg/L)。

三菱化学グリーントランスフォーメーション推進本部長の馬渡謙一郎氏は「工業排水による水質汚染は、日本が戦後復興の時代に経験した深刻な問題の一つだ。不十分な環境対策が引き起こした公害から教訓を学び、日本の化学セクターは極めて厳格な安全基準を設けている」と指摘する。

またSDGsの重要性が高まる中、日本の化学セクターは環境スチュワードシップの先駆的リーダーとして様々な取り組みを進めている。例えば三菱化学・東レは、化学物質の海洋流出防止に効果を発揮するナノろ過膜を開発した。大手化学メーカーとグリーン・ケミストリー分野のスタートアップの連携を通じたバイオ原料由来の化学品開発も、サステナビリティ戦略のさらなる加速を期待させる有望分野だ。例えば三井化学とスタートアップGreen Earth Institute[GEI]は、国内生産されるプラスチックの20%を占め、容器・包装材として使われるポリプロピレンのバイオ原料製造を目指して研究開発を進めている。

Wood Mackenzieの化学チームのヴァイス・プレジデントSteve Jenkins氏によると「様々な環境問題を克服してきた経験は、日本の化学セクターにとって大きな強みだ。環境ソリューション開発の分野では、過去のノウハウが特に活きる」という。

忍び寄る新たな危機

環境問題への取り組みが進む中、日本の食糧生産の分野では極めて深刻な化学汚染が広がりつつある。化学肥料の過剰使用により、河川へ流出した化学物質が深刻な海洋環境汚染を引き起こしているのだ。

査読付きジャーナル『Environmental Pollution』で発表されたある論文によると、日本・韓国による農業用窒素・リンの消費量はOECD諸国で最も多く、「栄養素の流出による深刻な環境汚染の原因になっている」という。

東京大学の石井氏も、「日本では過剰な施肥により、大量の化学肥料が作物に吸収されずに流出している。農地から川を経由して海へ到達するこうした化学物質は、深刻な汚染を引き起こし、海洋環境を破壊している」と指摘する。

こうした現状を受け、農林水産省は2021年に『みどりの食料システム戦略』を策定。化学肥料の使用を2050年までに30%、化学農薬の使用をリスク換算で50%削減するという目標を掲げた。石井氏はこの戦略を「極めて重要な取り組み」と評価する一方、「様々な政治的圧力がかかるため、戦略実行と目標実現は決して容易でない」という見方を示している。

バリューチェーンを通じた連携の必要性

日本におけるグリーン・ケミストリー推進の鍵を握るのは、川上の化学メーカー・サプライヤーから川下の製造企業・小売企業・エンドユーザーまで、バリューチェーン全体で連携を進めることだ。特に“購買力を武器”として企業へ影響を及ぼす消費者の支持・関与は不可欠だろう。

海洋プラスチックごみ問題の解決に向け2019年に設立されたイニシアティブ『クリーン・オーシャン・マテリアル・アライアンス』[CLOMA]は、取り組みの第一歩として重要な意味を持つ。同イニシアティブにはバリューチェーン全体から425社が参加し、化学製品・素材のリサイクルや生分解性プラスチックの分野で連携を通じた先進技術開発を支援している。

Wood MackenzieのJenkins氏によると、化学製品・素材のリサイクルに関する研究開発は、サステナブル・ケミストリー実現のステップとして比較的“ハードルの低い”取り組みだ。

「サステナブル原料の製造拡大とリサイクルの推進は、日本の化学セクターにとって大きなチャンスだ。包装材のリサイクル率は、今後20年で50%増加する可能性が高い」という。

CLOMA事務局技術統括の柳田康一氏によると、取り組み成功の鍵を握るのは、先行者不利益を軽減し、化学セクター全体で持続可能性を向上させる意識を確立するための連携強化だ。

「環境保護に向けた取り組み・製品をあらゆるステークホルダーにとって費用対効果の高い選択肢にするためには、バリューチェーン全体の連携が欠かせない。サステナブルなビジネス手法のコスト効率を高め、事業としての収益性をさらに改善することが、将来的な優先課題だろう。」

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