序論

世界は今、海洋酸性化*[ocean acidification] の進行が海の生態系や沿岸部経済にもたらす 影響に対して危機感を強めている。この現象が 貝類にもたらす深刻な被害が初めて報告された のは15 年前のことだ。それ以来、世界の研究 機関は関連データの収集を継続的に進めてきた。 科学者コミュニティも、世界の海域・沿岸部で 集積されたデータを活用し、海洋酸性化の原因・ 影響に関する数多くの研究を発表している。

一方、環境保全アドボカシー組織や慈善団体、 政府間組織はこうした研究成果を元に、世界的 な認知度向上やさらなる研究活動への資金支援 といった取り組みを進め、各国政府に具体的 対策の実施を求めている。

米太平洋沿岸地域のパイオニア:海洋酸性化への取り組みのグローバル規準

国の行動計画は非常に望ましいものだが、世界の他の地域が従うべき海洋酸性化への対処基準を定めているのは、アメリカ太平洋沿岸の州政府である。

しかし政府レベルの海洋酸性化対策は、遅々 として進んでいない。深刻な状況に懸念を示し、 国際的枠組みを通じた対策推進の意向を示して いるが、この問題に特化した行動計画*(action plan =アクションプラン)を策定済みの国は、 本報告書の執筆時点でわずか10 カ国程度にと どまっている。国内における海洋酸性化に対 する認知度向上と対策を進めるためにも、政府 レベルの取り組み加速は喫緊の課題だろう。

今回取材を行った専門家は、行動計画の 策定・推進を積極的に支持する立場を取って いる。海洋酸性化対策が、気候変動をはじめと する海洋環境管理イニシアティブの一環とし て、重要な位置を占めることは言うまでもない。 だが目標を明確化し、国・地域・地方レベルの コミットメントを促し、状況悪化に歯止めをか けるためには、海洋酸性化に特化した行動計画 が不可欠だ。一部の非政府組織[NGO]・研究 機関は独自のプランを打ち出しているが、政府 のそれに比べれば影響力は限られる。国レベル の取り組みは、その意味でも不可欠だ。

地方自治体レベルでは、世界各国の参考と なるような事例が既に見られる。米国の太平洋 沿岸部でいくつかの州が進める取り組みはその 代表的な例だ。海洋酸性化が生態系・地域経済・ 雇用にもたらす深刻な影響を世界に先駆けて 発信してきたこれらの州は、既存の研究成果を 活用し、詳細にわたる行動計画の策定・遂行と リソース支援を積極的に進めている。

今回の調査結果で注目に値するのは、北米で 蓄積されてきた経験・知見が、他地域の参考 事例として有効であるという点だ。行動計画を 打ち出すにあたり、あらゆる政府・自治体が北 米と同レベルの研究活動やリソースを確保でき るわけではない。しかし成功に向けたビジョン、 タイムライン、責任分担、計画内容の定期的見 直し・更新といったベストプラクティスを戦略 に盛り込み、行動計画の実現に向けたリソース 拡充と実行体制の強化を図ることは可能だろう。

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行動計画の重要性

海洋酸性化が海の生態系や(食料・雇用・経済 面でそれに依存する)沿岸部コミュニティにも たらす脅威はますます深刻化しつつある。海洋 酸性化の直接的原因となっているのは、人類の 活動により発生する二酸化炭素[CO2]の増加 だ。大気中に毎年放出されるCO2 の30%程度 は海に吸収されており、地球温暖化の軽減に もつながっている。しかしCO2 は海の吸収力 を上回るペースで増加しており1、海水の水素 イオン濃度指数[pH]低下と酸性化の進行に 拍車をかけている。

図1:海水のイオン濃度指数[pH]は低下の一途を辿っている

海水のpH値(0〜14で評価)は、海洋酸性化の進行を裏づけるエビデンスの一つだ。
過去1世紀を通じ、海表面のpH平均値は8.2から8.1以下へ減少。値の低下の半分以上は過去40年に生じており、海洋
酸性化が加速する現状が見て取れる。

世界の海洋環境(南緯65度〜北緯65度)におけるpH値の推移[経年・季節変動]

データ・タイムスケールの引用元: ETH Zurich

一部の海域(特に沿岸部)では、pH値がすでに8を下回っている。 CO2が現在のペースで排出されれば、世界の多くの海域で2100年までにpH値が8を下回る見込みだ。

海表面のpH値の推移(産業革命前〜2100年)

海表面のpH値の推移(産業革命前〜2100年)

資料:Andrew Yool 氏の許諾を受け、下記の論文から掲載: HS Findlay and C Turley 2021年. Ocean acidification and climate change. In: TM Letcher (Ed), Climate change: observed impacts on Planet Earth (Third Edition)

海洋酸性化がもたらす影響は、科学的に証明 された事実だ。例えば、太平洋北西部で2007 〜08 年にかけて発生した牡蛎幼生の大規模 死滅では、孵化場の海水酸性度上昇が原因とし て特定されている。最近では、米国太平洋沿 岸部におけるアメリカイチョウガニの幼生の殻 の脆弱化と海洋酸性化の関連性が研究によって 解明された。個体成長の遅れにつながるだけ でなく、地元養殖産業の収益にも影響を及ぼ すなど事態は深刻だ。また大西洋北東部でも、 地元漁業に不可欠な大西洋ダラや冷水サンゴ礁 へもたらす被害が報告されている。

ある研究結果によると、CO2 排出量が現状レ ベルで推移した場合に海洋酸性化が及ぼす影響 は極めて深刻だ。特に翼足類・二枚貝軟体動物・ 温水域に生息するサンゴなどの海洋生物につい ては、今世紀末までに破壊的ダメージをもたら す可能性が高いという。

国連は海洋酸性化が生物多様性・食物連鎖・ 経済活動に及ぼす影響を“海の緊急事態”[ocean emergency]の一つと見なし、持続的な開発 目標[SDGs 特に目標14.3]の一環として対策 実施を呼びかけている。

対策の必要性

米国太平洋沿岸部における取り組みの経験・ 知見をベースに設立されたThe International Alliance to Combat Ocean Acidification [海洋酸性化の克服に向けた国際連合= OA ア ライアンス]は、求められる対策を六つのカテ ゴリーに分類している:

特にデータ収集・共有や研究能力の強化といっ た領域では、国際的連携が不可欠だ。

しかし、気候変動の関連領域における事例が 示すように、最も効果が高いのは国・地方レベ ル(特に政府・自治体)の対策だ。既にいくつ かの政府・自治体は行動計画を策定している ものの、さらなる取り組みの拡大が求められる。

「行動計画の策定は、海洋酸性化という問題 の認知度向上と対策推進に有効だ」と指摘す るのは、英国Plymouth Marine Laboratory [プリマス海洋研究所= PML]の科学研究統括 ディレクターで、Global Ocean Acidification Observing Network[ 全球海洋酸性化観測 ネットワーク= GOA-ON]の共同議長を務め るSteve Widdicombe 氏。「政府が環境問題 としての重要性を公に認め、具体的アクション とリソース支援にコミットするという(行動 計画の)象徴的意味合いも、取り組み強化に つながる」と指摘する。(同氏が共同代表者 を務めるOcean Acidification Research for © Economist Impact 2023 海洋酸性化の克服に向けたアプローチ6 Sustainability Programme[持続可能性向上に 向けた海洋酸性化研究プログラム= OARS]8は、 海洋酸性化に関するエビデンスを政策・法案に 活用することを目標の一つとして掲げている。)

一方、笹川平和財団 海洋政策研究所の主任 研究員 小林正典氏によると、海洋酸性化対策 は(この問題に特化するかしないかに関わら ず)、海洋環境回復に向けた国・地域レベルの 取り組みの一環として重要な位置を占めるとい う。「政府は酸性化を含めた海洋環境の問題解消 に向け、統合的かつ包括的なアプローチで対策 を進めるべきだ。」

Widdicombe 氏によると、各国が打ち出す対 策はそれぞれの環境に応じて変化する可能性が 高い。「しかし海洋酸性化対策を環境政策・法制 の一環として機能させることは重要だ。行動計 画を打ち出せば、こうした政策・法制面の連携 を促進できるだろう。」

「海洋酸性化に関する科学研究は、(特に地域 単位の影響評価と効果的ソリューションの特定 という意味で)依然として発展途上にある」

- OA Alliance、 エグゼクティブ・ディレクター、 Jessie Turner 氏

OA アライアンスが掲げるミッションの一つ は、政府その他機関による行動計画策定の支援 だ。2016 年に設立され、国・州・地域レベル の政府・自治体、(北米などの)先住民族グルー プ・自治体、企業、研究機関など合計120 の 組織が参加する同アライアンスは、メンバーと 協力し、行動計画案の策定とプロセス遂行支援 に向けたツールキットを開発した。同アライア ンスのエグゼクティブ・ディレクター Jessie Turner 氏によると、既にいくつかの行動計画が 発表されたが(P.7 の表1 参照)、政府機関との 連携を通じた策定作業の多くは試行錯誤を繰り 返しながら現在も続いている。

「海洋酸性化に関する科学研究は、(特に地域 単位の影響評価と効果的ソリューションの特定 という意味で)依然として発展途上にある」と いう。「科学的知見・情報の行動計画への活用は、 政策開発・管理応用の分野で最先端の取り組み といえる。海洋酸性化の行動計画作りを通じ、 現在多くの政府が模索を続けており、OA アラ イアンスも知見・ベストプラクティスの共有と いう形で支援を行っている」と同氏は語る。

Turner 氏によると、OA アライアンスの取り 組みは自主的な性格が強い。「アライアンスは “有志による同盟” であり、行動計画の策定が 法的に義務づけられているわけではない。取り 組みに必要な時間・リソースを確保するのは、 我々にとっても政府にとっても大きなチャレ ンジだが、問題の克服には不可欠だと考えて いる。」

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本報告書について

『海洋酸性化の克服に向けたアプローチ』は、 Economist Impactと日本財団による海洋保全イニシアチブ『Back to Blue』の一環としてEconomist Impactが 作成した報告書で、海洋酸性化が生態系にもた らす影響の緩和と、政府・自治体やその他組織 による取り組み、そして行動計画が担う役割を 検証することを目的としている。

本報告書の作成にあたっては、複数の専門家 を対象として詳細にわたる取材を行った。ご協 力をいただいた下記の皆様(敬称略・所属組織 のアルファベット順に記載)には、この場を借 りて御礼を申し上げたい:

  • Global Ocean Acidification Observing Network 共同議長 Plymouth Marine Laboratory 科学研究統括ディレクター Steve Widdicombe
  • International Alliance to Combat Ocean Acidification エグゼクティブ・ディレクター Jessie Turner
  • Pacific States Marine Fisheries Commission シニア・プログラムマネジャー Caren Brady
  • Plymouth Marine Laboratory 海洋生物学者 Helen Findlay
  • 笹川平和財団 海洋政策研究所 主任研究員 小林 正典
  • 東京大学 大気海洋研究所 教授 藤井 賢彦

本報告書の執筆はDenis McCauley、編集はBack to Blueのリード・エディター近藤奈香が担当した。

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