本報告書について

『海洋酸性化と生物多様性の損失: 因果関係の解明に向けたデータ連携の重要性』は、Economist Impact と日本財団による海洋環境保全イニシアティブ『Back to Blue』の一環としてEconomist Impact によって作成された報告書だ。その目的は、海洋酸性化と生物多様性損失の間にある因果関係解明の重要性、そして取り組みに伴う課題を海洋研究コミュニティと共有することにある。

概論

世界では今、生物多様性の危機が深刻の度合いを増しつつある。過去数十年を通じた動植物種数の急速な減少を受け、一部の専門家は新たな大量絶滅* の可能性を示唆している。今回の危機が過去の事例と大きく異なるのはその原因だ。先史時代に発生した大量絶滅の引き金となったのは、自然発生的な環境変化(突発的かつ大規模なものもあれば、より緩やかなものもあった)だった。しかし現在直面する危機の根本原因となっているのは、陸上・水域における生物乱獲や過剰な農業生産といった人間活動だ。長期的に見て特に大きな脅威となっているのは、絶え間ない二酸化炭素[CO2]の排出によって加速する気候変動である。

海水温上昇に伴うサンゴ礁の白化・死滅など、気候変動の影響は世界各地の海で明らかに見てとれる。許容量を超えるCO2 の排出と海水の化学反応は海洋酸性化を引き起こし、プランクトン・貝類などに深刻な脅威をもたらすだけでなく、海洋生物の成長・繁殖を妨げている。

海洋環境の化学反応・生物学的プロセス** に生じる変化と海洋酸性化の因果関係は、過去の研究からも明らかだ。例えば海洋酸性化を背景とする生物多様性の損失は、海洋生態系とそれを食料源・収入源とするコミュニティにも大きな影響を及ぼしてきた。政策担当者や国際機関関係者の多くは、こうした危機的状況を認識している。例えば対策推進を義務づける『国連生物の多様性に関する条約』[CBD]に基づき、締約国の多くは行動計画を打ち出している。しかし、国・地域・地方レベルの重要な取り組みが、政策・活動の重複や利益相反などによってリソース不足に陥る、あるいは推進力を失うケースも少なくない。

海洋酸性化対策の重要性を訴える専門家は、政策担当者の間で危機感が十分共有されていない現状を危惧している。海洋酸性化は気候変動がもたらす他の影響と比べて可視化が難しいため、研究者は生物種減少との因果関係解明を通じて認知を高めようとしている。こうした取り組みには、他にもメリットがある。各環境で海洋酸性化が生態系の負荷となっているかを判別できること、そして対策ミスによる意図せぬ悪影響の可能性を回避できることだ。

因果関係の証明には、実験施設でのシミュレーションだけでなく、実環境での大規模なデータ収集が必要となる。海洋環境における化学反応・生物学的プロセスの監視活動(現在のところ別々に行われている)の連携強化も求められるだろう。一定の因果関係を証明するためには、数十年単位のデータが必要となる。しかし新たなアプローチを模索する専門家グループは、その大部分を今後数年内に証明可能だと考えている。

本報告書では、海洋研究の最新アプローチを応用することで、どのようにして海洋酸性化と生物多様性損失の因果関係を解明できるのかを検証する。検証結果の証明には、概ね数十年単位の時間が必要となることも多い。しかし海洋酸性化を他の負荷要因から切り離すことができる調査環境では、短期間で相関関係を示すことも可能だ。政策的対応が急務となっている現在、調査結果の早急な解明は大きな意味を持つだろう。

主要な論点

  • 『Back to Blue』はこれまでいくつかの報告書を通じて、海洋酸性化が生物・生態系にもたらす深刻な脅威と、一部の国の取り組み例を紹介してきた。本報告書では、生物多様性の損失という文脈から海洋酸性化を取り上げ、その影響に関するより統合的・包括的な研究の必要性について論じる
  • 国・地域・地方レベルの海洋酸性化対策では、取り組みの重複や利益相反によって期待した効果が得られない事例も少なくない。海洋酸性化と生物種減少の因果関係を解明すれば、政府関係者の危機意識を高め、具体的な取り組みに向けた切迫感が醸成されるはずだ
  • 生物種減少の主要因は、環境によって異なることが多い。海洋酸性化が生物学的プロセスに及ぼす影響を特定できれば、対策が各環境にもたらす負の影響を回避することができる
  • 海洋研究は、実験室内における調査のみならず、実環境におけるデータ収集を積極的に進める必要がある。監視活動の連携強化に向けた化学・生物学分野の協力関係推進も重要だ
  • 一部の研究者は、評価指標の共通化などを通じた化学・生物学研究の連携推進に向け、新たなアプローチを積極的に取り入れている。海洋酸性化と生物種減少の因果関係を明らかにする上で、こうした取り組みは極めて重要な意味を持つ

1. 海洋における生物多様性の危機

生物多様性損失の危機は、世界規模で悪化しつつある。International Union for Conservation of Nature[国際自然保護連合= IUCN]の推計によると、現在絶滅の危機に晒されている生物・植物種は全体の28%に上るという。IUCN が監視・評価体制の強化を進めた1990 年代中期以降、その数は着実に増加している。

Intergovernmental Science-PolicyPlatform on Biodiversity and EcosystemServices[ 生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学政策プラットフォーム= IPBES]の議長で、海洋研究組織 CORDIAEast Africa の創設メンバー 兼 ディレクターを務めるDavid Obura 氏によると、生物多様性の損失が生態系にもたらす危機はさらに深刻だ。「生物種・植物種の相互作用は、生態系機能を根本的に支えている。生物多様性が失われる、あるいは一定水準まで悪化すれば、生態系は生物絶滅よりも遥かに前の段階で機能不全に陥ってしまう。」こうした状態に陥れば、人類もその恩恵を受けることができなくなるという。

生物多様性が失われる、あるいは一定水準まで悪化すれば、生態系は生物絶滅よりも遥かに前の段階で機能不全に陥ってしまう。

– David Obura氏
生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学政策プラットフォーム(IPBES) 議長および海洋研究組織 CORDIAEast Africa の創設メンバー 兼 ディレクター

今日の世界で、生物多様性に最大の脅威をもたらしているのは人間活動だ。陸上環境における農地の拡大、森林破壊、生物の乱獲、侵略的外来種の持ち込み、公海における水産資源の乱獲、そして沿岸部における農業排水・化学物質汚染などはその一例だ。また産業革命以降のCO2 排出増加に伴う気候変動も、陸上・海洋環境で深刻な影響を及ぼしている。

気候変動を背景とする海洋生物の減少は、既に危機的レベルにある。WWF International[世界自然保護基金]の海洋プラクティス・リーダー Pepe Clarke 氏は、「例えばサンゴ礁の破壊は世界各地で急速に進んでいる」と指摘する。この危機的状況を示すデータは枚挙にいとまがない。ある研究によると、1957 〜2007 年を通じてサンゴ礁全体の約50%が失われた。その影響の一つとして挙げられるのが、サンゴ礁魚類の減少だ。サンゴ礁魚類の総水揚量は2001 年の約230 万トンをピークに減少へ転じており、努力量あたり漁獲量[CPUE]*も1971 年以降着実に低下しつつある4。こうした状況から深刻なあおりを受けているのが新興国、特にサンゴ礁魚類を主要な食料源・収入源とする島嶼国だ。Obura 氏によると、「生物多様性の損失は、経済力の低い国・コミュニティへとりわけ大きな影響を及ぼしている。生態系破壊に対策を講じるための経済資源が十分でなく、危機的な状況に陥っている」という。

50%

1957 〜2007 年を通じてサンゴ礁全体の約 50%が失われた。その影響の一つとして挙げられるのが、サンゴ礁魚の減少だ。

サンゴ礁と比べて社会的関心が低く、研究テーマとなることも少ないが、海洋環境の食物連鎖で重要な位置を占める生物種でも問題は深刻化している。円石藻類* はその一例だ。地中海で行われたある調査では、円石藻類に属する27種で細胞濃度低下と多様性損失の進行が確認された5。

海洋酸性化と生物多様性の損失

円石藻類の例を含め、海洋環境における生物多様性損失との関連性がほぼ確実視されている要因の一つは海洋酸性化だ。暖房や発電、輸送機関など、人間活動にまつわる化石燃料の燃焼によって排出されるCO2 の増加が、その直接的要因と考えられている。海が1年に吸収する大気中のCO2 は、全体の20 〜30%程度だ。炭素は海洋における生物学的プロセスの一端を担っており、多くの生物種の成長に不可欠な存在となっている。大気中から吸収し、長い時間をかけて分離するこのプロセスは、地球温暖化の軽減に一役買っている。しかし現在、排出量の増加によって海が分離しきれないCO2 が海水の水素イオン濃度指数[pH]低下を招き、海の水質を酸性に近づけるという現象(すなわち海洋酸性化)が急速に進行しているのだ。

しかし、大気中へのCO2排出量が増加すると、海洋によるCO2吸収は追いつかなくなる。海洋に余剰の炭素が蓄積されると、海水の水素イオン濃度指数(pH)の低下を招き、酸性度は高くなる。

海洋酸性化の影響が特に顕著なのは、貝類などの石灰化生物で生じる殻・骨格生成と成長の阻害だ。しかしスウェーデン ヨーテボリ大学生物環境科学学部の上級講師Sam Dupont 氏によると、「この現象は問題の一端に過ぎない」という。「過去に経験のない状況(海洋酸性化もその一つ)へ対応するためには多大なエネルギーを必要とする」が、生物の多くは十分なエネルギーを蓄えていないためにダメージを受けてしまう。「ダメージはまず成長障害や卵数の減少といった形で現れ、より深刻なケースでは死滅につながる」という。

過去に経験のない状況(海洋酸性化もその一つ)にさらされると、生物はその状況に対応するために多大なエネルギーを必要とする

-Sam Dupont氏
ヨーテボリ大学 生物 環境科学学部・上級講師

例えば米国北西部のオレゴン州・ワシントン州では、2007 〜08 年にかけてカキの幼生が大量に死滅し、養殖業者に大きな打撃を与えた。研究者グループは海水の酸性度上昇をその原因として特定している。動物プランクトンの一種で鮭・クジラなど大型海洋生物の餌となる有殻翼足類も、深刻な影響を受ける生物種の一つだ。CO2 濃度が高く、かつアラゴナイト* の濃度が低い海域、つまり海洋酸性化が進む水域では、有殻翼足類の殻・骨格強度低下が確認されている。

認知の高まりと対策の遅れ

国際社会では、海洋酸性化が生物多様性にもたらす脅威について認識が高まりつつある。2022年12 月に開催された第15 回生物多様性条約締約国会議[CBD-COP15]では、生物多様性損失の防止と生態系の回復に向けて2030 年までに達成すべき23 の目標を採択。目標8は「気候変動と海洋酸性化が生物多様性へもたらす影響の最小化と、軽減・適応・災害リスク軽減措置を通じたレジリエンスの強化」を謳っている。

国連はこの目標を掲げることで海洋酸性化と生物多様性損失の相関関係を認め、締約国に対策の推進を義務づけたのだ。同目標の達成に向け、締約国は生物多様性関連法案における海洋酸性化対策の明記、影響軽減に向けた取り組みと、具体的目標の策定、進捗状況の監視を求められている。

目標8の達成に向け、締約国は生物多様性関連法案における海洋酸性化対策の明記と、影響軽減に向けた取り組みが義務付けられている。

依然として数は限られるものの、具体的措置を実行に移す政府・自治体も見られる。OAAlliance[旧名:The International Alliance toCombat Ocean Acidification =海洋酸性化の克服に向けた国際連合]の調査によると、本報告書の執筆時点で13 カ国の政府が行動計画を策定済みだ。

取り組みが必ずしも進んでいない理由はどこにあるのだろうか。『Back To Blue』が昨年発表した報告書『海洋酸性化の克服に向けたアプローチ:危機の深刻化と行動計画の重要性』で指摘したとおり、背景の一つは行動計画の策定に必要な資金・リソースが不足する現状だ。計画実施・監視に向けた取り組みでは、この問題がさらに深刻となっている。財源の豊富な国々でも、水産資源の乱獲や化学汚染といった問題が優先されがちだ。ヨーテボリ大学のDupont 氏は、「打ち出すべき対策はわかっていても、政策担当者に実行を促すのは容易でない。一部の生物種が20 年以内に死滅するという警告だけでは、人々の危機感を高めることは難しい」と指摘する。

海洋酸性化と生物多様性損失の直接的関係を疑いの余地なく証明できれば、危機意識の醸成を促すことができるだろう。

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