かつて海洋文化の一大拠点として栄えたコーチには、複雑に張り巡らされた運河網が重要な役割を果たしてきた。なかでも、19世紀の英国統治時代に建設された全長約10キロメートルのテーバラ・ペランドゥール運河(Thevara–Perandoor Canal:TP運河)は、内陸部とコーチ港を結ぶ水運の要として、都市の発展を支え続けてきた。
しかし、この運河は無秩序な都市化と維持管理体制の不備の影響を受け、次第に荒廃していった。かつて活気にあふれていた水路には廃棄物や廃水が流れ込み、インド最長の淡水湖であり、世界的にも重要な湿地帯であるベンバナード湖を経て海へと汚染物質を運んできた。同湖を対象とした複数の調査では、マイクロプラスチックが高濃度(96〜496個/m²)で検出されており、漁業や渡り鳥、地域コミュニティの生計に深刻な影響を及ぼしている。
コーチにとって転機となったのは、2018年に発生した壊滅的洪水だ。南西モンスーン期(2018年6月1日〜8月28日)の降雨量は2411mmに達し、例年の1770mmを大幅に上回った。「世紀の大災害」と呼ばれたこの洪水は、自然インフラの荒廃がもたらす代償を浮き彫りにした。数百人の命が失われ、州政府は4000億ルピー(45.5億ドル)の支援を要請した。この災害によって、コーチの水路再生が環境面はもちろん、経済・社会面でも不可欠であることが明らかとなったのだ。
こうした状況を受け、コーチは地域的取り組みと世界的な海洋レジリエンス構築をリンクさせた野心的な運河再生計画に着手。2023年に開始されたThevara–Perandoor運河再生プログラムはその代表例であり、Kochi市公社[KMC]、同公社の遺産・環境・開発センター[C-HED]、そして国連環境計画[UNEP]が協働し、水環境の再生に取り組んでいる。
ケララ州のモンスーン雨
2002年に設立されたC-HEDは、KMCの研究開発部門として、遺産保全・都市計画・環境ガバナンスの橋渡し役を担っている。その役割は、技術的プロジェクトの枠組みを超え、再生事業の文化的意義を担保すること。つまり、コーチ市民とかつて都市の象徴であった水路との結びつきを復活させることだ。
この取り組みにおいて鍵の一つとなるのが、世界規模の知見を持つ国連環境計画の存在だ。コロンビアのバランキージャやケニアのキスムなど、荒廃した水路の再生によって生物多様性と生活の質改善を実現した都市との連携も進んでいる。バランキージャによるレオン川の汚染克服プロジェクトや、キスムによるアウジ川の環境再生イニシアティブは、コーチにとって特に重要な参考事例となっている。自然の緩衝機能と人工システムを融合するハイブリッド型インフラを通じたレジリエンス強化の可能性を示しているからだ。
「コーチ運河再生プログラムの目的は、TP運河を清潔な水が流れる多機能水路へ変貌させることだ」と語るのは、国連環境計画の適応・レジリエンス部門統括責任者Mirey Atallah氏。浚渫、汚染管理、そして自然ベースのソリューションによって、酸素バランスと豊かな水生生態系を回復できるという。
コーチの運河再生プロジェクトは、海洋汚染の克服と持続可能な沿岸部開発の促進に向けた世界的取り組みの一環として位置づけられる。Economist Impact と日本財団による海洋環境保全イニシアティブ『Back to Blue』は、科学・ビジネス・政策・金融、そして国連関連機関などの専門家コミュニティと意見交換を行い、海洋汚染克服のための対策策定・推進に向けて連携を進めてきた。その成果の一つとして発表された報告書『世界規模の海洋汚染克服に向けて:行動推進のロードマップ』は、包括的な連携の枠組みを明らかにしている。
こうした『Back to Blue』の取り組みを受け、ユネスコ政府間海洋学委員会[IOC UNESCO]・国連環境計画[UNEP]は、『国連海洋科学の10 年』の一環として数十年にわたるパートナーシップを提案。明確なエビデンス・ベースの構築、データ不足の解消、官民両セクターにおける抜本的な対策推進を2050年までに実現するというのが両機関のビジョンだ。
TP運河プロジェクトは、こうした目標を地域レベルで実現する取り組みだ。水質改善、廃棄物の遮断、そしてアラビア海へ流出するマイクロプラスチックの削減を通じ、“2050年までに汚染のない海を実現する”というビジョンに直接貢献している。地域の監視データを国連環境計画が手がける淡水域フレームワークへ統合することで、コミュニティ規模の成果と世界規模の指標を結びつけることができる。「自治体機関や学術機関、地域コミュニティを巻き込むことで、コーチは長期的な環境維持・管理と行動変容の実現を目指しています。浮遊湿地対策、分散型処理システム、コミュニティ主導の監視活動といったモジュール型の取り組みは、世界各地の様々な沿岸・気候脆弱都市に応用することが可能です」とAtallah氏は語る。
インド ケララ州コーチ
インド ケララ州での漁業の様子
コーチの運河再生プロジェクトは、世界規模で拡大するトレンドを反映する取り組みだ。国連環境計画が『国連生態系回復の10年』(2021〜2030年)の一環として立ち上げた『Generation Restoration Cities』イニシアティブの下、コーチは自然ベースのソリューションを活用した都市計画推進の支援対象となる19都市の一つに選ばれている。同イニシアティブは、地域レベルの再生事業と、パリ協定や『地球規模生物多様性枠組み』などの世界的な枠組みとの連携を図ることを目的としている。
コーチが選ばれた背景には、ケララ州がサステナビリティ分野で発揮するリーダーシップがある。同州は、持続可能な開発目標指数でインド国内トップクラスの成績を収めており、クリーンエネルギー、教育、飢餓ゼロといった分野で優れた実績を示してきた。2019年に開始された都市再生・水上交通システム統合プロジェクト[IURWTS]は、5つの主要運河の再生、洪水の軽減、そして水上公共交通システムの構築を目指すものだ。TP運河はその中核的存在で、環境管理とモビリティ・遺産保護・気候変動レジリエンスを結びつけるハブの役割を担っている。
産業と緑が融合た景観の中を滑るように走るコチの電車
Atallah氏によると、同プロジェクトは隘路の拡幅、バイオスウェールの整備、河畔緩衝帯の設置を通じた洪水リスクの軽減、そして運河の生態系・航行機能の回復を目指している。
「これまでに運河全体の予備調査、市長主導のステークホルダー協議、環境ベースライン評価、そして55校・400人超の生徒が参加するコミュニティ・プログラムなどが行われた」という。
こうしたプロジェクトからは、環境・経済の両面で効果が期待できる。International Institute for Sustainable Development[国際持続可能開発研究所=IISD]が2024年に発表した調査によると、コーチの運河再生プロジェクトは、健康、洪水対策、交通効率、観光など様々な領域で効果をもたらしている。またケララ州にあるコーチン科学技術大学が2021年に実施した調査では、コーチのマングローブ林による年間ヘクタールあたり平均2.95トンの炭素隔離効果が明らかになるなど、気候変動対策としての価値も示された。マングローブ林の回復は、運河の緑化だけでなく、海面上昇・高潮に対する都市の自然レジリエンス強化にもつながっている。両調査の結果が示唆するように、戦略的な環境再生は、最も効果の高い公共投資の一つになりうるのだ。
コーチの運河再生プロジェクトは、生態系の回復、革新的なエンジニアリング、そしてスマート・データシステムを融合させた取り組みだ。浚渫により堆積した土砂を除去し、分散型処理施設によって下水や固形廃棄物が運河へ流入する前に遮断する。また、在来種を植えた人工浮島である浮遊湿地は、汚染物質を吸収するとともに水生生物に生息地を提供する。さらに、マングローブの再植林は護岸の安定化や炭素貯蔵に寄与し、生物多様性の保全を後押ししている。
「生物工学を活用した運河護岸、浮遊湿地、分散型下水処理施設といった革新的なグリーン=グレー・ハイブリッドインフラの試験導入を通じ、長期的レジリエンスと生物多様性の強化を目指している」と語るのはAtallah氏。
通勤者はケララ州の運河をボートで移動する
また同プログラムは、高解像度数値標高モデル[DEM]、LiDARマッピング、GISベースの空間分析を活用し、洪水リスクの高い地域や汚染ホットスポットの特定に役立てているという。CCTV監視カメラとスマートセンサーが廃棄物の投棄を追跡し、リアルタイムで水質を監視する一方、地域に拠点を置くチームが現場での維持管理を支援している。コーチの再生事業はこうしたテクノロジーの活用により、データ主導型都市サステナビリティにおける実証実験の機会ともなっている。
2024年半ばまでに実施した浚渫・脱泥の効果は既に現われている。これまで高濃度のリンが魚類や植物に害を及ぼしていた複数の流域で水の流れが改善。廃棄物遮断柵や標識も設置された。また啓発キャンペーンが開始され、運河をコミュニティの共有財産として捉える意識改革が学校レベルで行われている。取り組みが開始されて間も無い現段階でも、テクノロジー、コミュニティによる行動、生態学的知見の融合を通じた相乗効果が確認されている。
同プロジェクトの重要な特徴は、恩恵を受ける住民を主体とするアプローチにある。設計やマッピングから、モニタリングや維持管理に至るまで、地域コミュニティの関与があらゆる段階で重視されている。住民は汚染源や緑地を地図化する「マッパソン」に参加し、学生は浮遊湿地をデザインするコンペに取り組む。また、写真展では運河の過去と現在を映した作品が展示され、地域の歴史への愛着と行動への意欲を高めている。
ケララ州 漁業の様子
プロジェクト完了後の運河沿いには、遊歩道や庭園、解説掲示が設置される計画だ。またフェスティバルや舞踊大会、ボートパレードといったイベントの開催も予定されている。運河は海洋都市としてのコーチのアイデンティティを象徴する場であり、住民と観光客の双方を魅了する文化回廊へと生まれ変わる。また、このプロジェクトは、総額371億6,000万ルピー(約651億4000万円)の予算規模を持つIURWTS構想とリンクし、水上タクシー網の拡充と道路渋滞緩和にも取り組んでいる。
特に重視されているのは包摂性だ。スラム住民や漁業に従事する女性は、協同組合や移転プログラムを通じてプロジェクトに関与し、マングローブ林・廃棄物の管理、環境モニタリングの訓練を受けている。Atallah氏によると「このプロジェクトはスキル開発を重視しており、地域の当事者意識と管理体制を強化するグリーン雇用を創出している」という。
コーチの運河再生プロジェクトでは、数値化可能な指標を活用して、生態系・水文学・社会面の変化を追跡する予定だ。Atallah氏によれば、溶存酸素量や化学的・生物学的酸素要求量の推移を計測することで、水質の改善度を確認できるという。また、浸水域の縮小は洪水レジリエンスの向上を示し、航路再開やコミュニティ参加の拡大は、プロジェクトの社会的影響を実証する指標になるという。
こうした取り組みは、ケララ州の低排出型交通機関への移行や、道路混雑の緩和にもつながっている。Atallah氏は「新設される船着場とマルチモーダル交通拠点により、水上交通と陸上交通の円滑な接続が実現する」と考えている。非動力輸送の推進と大気質の改善にも貢献するはずだ。すでに見られる水の透明度向上、コミュニティ意識の拡大、生物多様性の増加といった成果は、持続可能な都市再生モデルの可能性を示している。
コーチが進める取り組みにおいて、TP運河の修復は都市再生の新たなフェーズを象徴する。都市の水路再生が、市民・自然・経済にもたらす大きな可能性を示すことになるだろう。「コーチ運河再生プログラムの成功は、生態系回復にとどまらず、地域コミュニティに社会経済面の具体的なメリットをもたらしている。水質改善と水生生物の生息地回復により、小規模漁業や農業といった伝統的な営みが復活するだろう。快適性を増し航行可能となった水路は、エコツーリズム・文化的ボートツアー・地元市場など、水辺を拠点とするビジネスを活性化するはずだ」同氏は語る。
ケララ州における小規模水産養殖
世界の多くの都市が自然とのつながりを失いつつある中で、コーチの取り組みは先進的な事例として大きな可能性を秘めている。Atallah氏は、「参加型ガバナンス、透明性の高いデータ共有、エンジニアリングと自然ベースのソリューションの融合といったコーチのアプローチは、他の都市でも応用可能だ」と語る。
かつて汚染の象徴とされていたTP運河は、今や人類の進歩と自然システムの調和を象徴する存在へと生まれ変わろうとしている。本格的な修復が進む2025年末に向け、コーチは水路とともに繁栄する都市というビジョンの実現に、一歩近づくだろう。水が淀みなく流れ、生態系と市民の双方を育む都市として。
コーチは、これまで顧みられることのなかった水路を活気あふれる公共空間へと変容させた。Atallah氏は、この取り組みが、“水との共生”という言葉の意味を大きく変えると考えている。この運河再生プロジェクトが示すように、持続可能な開発は崇高な理想ではない。日々の実践を通じて、市民・自然・繁栄の有機的つながりを実現する取り組みなのである。
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