この事故は、カリブ諸国の脆弱性と相互依存性の両面を浮き彫りにした。当時、国連環境計画(UNEP)は、地域海プログラムという新たな枠組みを通じて、各国間の協力体制の構築に取り組み始めた段階であった。
カリブ諸国の指導者たちはこの機会を捉え、カリブ海の保護に向けた地域的な枠組みの構築について、国連環境計画(UNEP)に正式な支援を要請した。その結果、1983年に「カルタヘナ条約」が採択され、同時に最初の議定書である「油流出議定書」も策定された。この議定書は1986年に発効している。1988年には、ジャマイカのキングストンに事務局が設置された。
油流出事故への対応をきっかけに誕生したカルタヘナ条約は、その後、法的拘束力のある義務と拘束力のない戦略とを両立させる、包括的なガバナンス枠組へと発展してきた。これは、世界的な海洋汚染対策に取り組む上で、持続的な教訓を提供するものである。
カルタヘナ条約は、広域カリブ地域において唯一の法的拘束力を持つ地域環境協定である。その対象範囲は、アメリカ合衆国やメキシコから、小アンティル諸島の最も小さな島々にまで及び、地理的・経済的に大きく異なる国々──大陸国家と島嶼国、資源に恵まれた国と限られた国──が、共通の課題に協力して取り組むための枠組みを提供している。
本条約の下では、各国が技術作業部会や政府間会合を通じて結集し、海洋生物多様性の保全、漁業管理、汚染対策、沿岸域管理といった課題に取り組んでいる。このプロセスは、能力や経済的背景の異なる国々の対話を促進し、国家主権を損なうことなく、調和と地域的な意思決定の機会を創出している。
このモデルは包摂的であるだけでなく、実用的でもある。プラスチック汚染やサルガッソ[海藻]の大量漂着、国境を越える油流出といった課題に、カリブ地域のいずれか一国だけで対処することは不可能である。地域協力は選択肢ではなく、不可欠な手段である。
Economist Impact と日本財団による海洋環境保全イニシアティブ『Back to Blue』は、科学・ビジネス・政策・金融、そして国連関連機関などの専門家コミュニティと意見交換を行い、海洋汚染克服のための対策策定・推進に向けて連携を進めてきた。その成果の一つとして発表された報告書『世界規模の海洋汚染克服に向けて:行動推進のロードマップ』は、包括的な連携の枠組みを明らかにしている。
こうした『Back to Blue』の取り組みを受け、ユネスコ政府間海洋学委員会[IOC UNESCO]・国連環境計画[UNEP]は、『国連海洋科学の10 年』の一環として数十年にわたるパートナーシップを提案。明確なエビデンス・ベースの構築、データ不足の解消、官民両セクターにおける抜本的な対策推進を2050年までに実現するというのが両機関のビジョンだ。
このビジョンを形にするためには、民間セクターの効果的な関与が欠かせない。食料・農業セクターにおける環境リスクの克服を目的とし、グローバル投資家の行動を後押しするFAIRRは、その実現に向けた一つのあり方を提示している。
カルタヘナ条約の最初の重要な手段である油流出議定書は、海上輸送による油流出に対する準備と対応に焦点を当てるとともに、加盟国の海洋事故管理能力の向上を図っていた。この経験を振り返り、カルタヘナ条約事務局のコーディネーターであるクリストファー・コービン氏は、事務局と加盟国がカリブ海の汚染に効果的に対処するには、その汚染源を直接的に取り組む必要があることを早期に理解したと説明する。「陸上起源の汚染という根本原因に対処していなかったため、修復努力は失敗していたと気づいた」とコービン氏は語る。
1999年に陸上起源海洋汚染議定書(LBS議定書)が採択され、2010年に発効した。この議定書は、未処理の廃水と農業からの流出物という二つの重要な課題を浮き彫りにした。これらの汚染物質は、人の健康やサンゴ礁、マングローブ、海草藻場に直接的な影響を及ぼすものであり、これらの生態系は漁業や観光にとって極めて重要である。
そして10数年を経た今、新たな優先課題が浮上している。プラスチック汚染、富栄養化、気候変動の累積的影響が、より深刻な問題となってきたのだ。Corbin氏によると、カルタヘナ条約は循環経済戦略、クリーンテクノロジー、自然ベースのソリューションなどを活用し、海洋汚染の根本原因に対処しながら新たな脅威への適応力を強化しているという。その推進力となっているのは、科学的・モニタリングの進展と、カリブ地域における実践的で資源効率の高い解決策の必要性だ。
カルタヘナ条約の大きな特徴の一つは、海洋汚染を対象とした地域的アプローチの多くと異なり、法的拘束力を有している点だ。締約国は、締約国会議の決定[Decisions of Conferences of Parties]を通じて、同条約とその議定書が定める方策の実施を義務づけられている。コービン氏によると、この法的枠組みは域内改革や国際的資金調達の牽引役となり、「国レベルでの対策の動機付けや促進要因、場合によっては推進力となってきた」という。各国政府は、廃水処理や汚染対策、生物多様性保護への投資を正当化する際に、こうした約束を国内の関係者に示すことができる。また、国際的な義務を根拠に資金提供者に支援を求めることで、財政支援を得やすくなる。
しかし、法的拘束力によって全ての問題が解決できるわけでない。コービン氏は、カルタヘナ条約の成功の多くは、政府間の協力プロセスそのものに起因していると強調する。その中には、技術指針やベストプラクティス、地域戦略といった法的拘束力を持たない手段の活用も含まれている。「異なる立場を持つ国々が一堂に会し、科学的・技術的な解決策を見いだすという行為そのものが、法的枠組みと同じくらい価値のあることだ」と彼は述べている。説明責任を担保する法的拘束力のある約束と、柔軟で非拘束的な協力を組み合わせたこのバランスこそが、カルタヘナ条約の特徴であり、他の地域にとっても有益な教訓となりうる。
締約国へ一律に義務を課す条約とは異なり、カルタヘナ条約は各国特有の優先課題を明確にした上で地域合意を形成するというアプローチを採用している。「目指しているのは、整合性と一貫性だが、同時に各国が自国の状況に応じて調整・適応できるだけの柔軟性も確保している」とコービン氏は説明する。条約では、加盟国の政府および技術担当者と積極的に連携し、海洋生物多様性、漁業、沿岸管理、汚染対策など、各国固有の優先課題の特定に取り組んでいる。
この包摂的なプロセスにより、地域戦略はすべての参加国のニーズと視点を反映して形成される。その結果、各国の積極的な参加と主体的な関与が促進されている。このモデルの成功は、形式的な手続きだけでなく、関係者の間に築かれた個人的なつながりや信頼関係にも支えられており、協力の場が単なる政府間交渉ではなく、まるで家族のような関係として機能している。カルタヘナ条約は、各国の声を重視し、幅広い関係者の参加を促すことで、共有された環境課題に対して、より実効性があり、広く支持される解決策を打ち出すことができるのである。
コービン氏によると、同条約は締約国による国レベルでの管理体制強化にも貢献してきた。条約発効以前は、環境省・農業省・観光省・保健省・財務省などの関係省庁がそれぞれ独立して活動することも多く、加盟国による効果的かつ包括的な環境政策の遂行を阻害していた。同条約は、こうした縦割り組織の弊害解消に役立ってきたという。
「改善が見られる」分野はいくつかある。例えば、複数の締約国は省庁間委員会、ブルーエコノミー省や環境調整を担う省庁を設立しており、「事務局として、連携推進に役立っていることを実感している」という。国レベルのより円滑な政策調整は、陸上汚染源への対策においてとりわけ重要となる。政策対象が、沿岸域から遠く離れた上流地域にあることも少なくないからだ。
現在では、地域の団体や環境NGOもこのプロセスに加わっている。彼らは条約のオブザーバーとして認定され、政府間の会合にも参加し、議論の形成に貢献している。このような参加は、条約の正当性を高めると同時に、地域の知見を取り入れるうえでも重要である。一方で、コービン氏は、民間セクターの関与をさらに強化する必要があると強調する。効果的な海洋汚染対策を構築するには、民間の視点が不可欠だからである。クルーズ会社、海運業者、ホテルチェーンといった企業は、特に廃水の排出や沿岸開発の面で海洋汚染に大きな影響を及ぼしているにもかかわらず、「政策の議論や持続可能な解決策の設計・実施に関与する機会がほとんどない」と、コービン氏は指摘する。
進展も見られており、事務局主導のもと、観光業界団体や海運業界との連携に向けた地域的な取り組みが進められている。重要なのは、コービン氏が、提案されている国連「海洋の10年」プログラムを通じて、グローバルなレベルで民間セクターの関与をより体系的に進めていく好機と捉えている点である。
効果的な海洋ガバナンスは、正確かつタイムリーなデータに依存している。しかし、多くのカリブ諸国では依然として旧式のモニタリング体制に頼っており、包括的な評価を行うための十分なリソースも欠いているのが現状である。監視プログラムのほとんどは「設計が非常に古く、過去の科学研究に基づいている」とコービン氏は指摘する。「監視能力のさらなる強化が急務となっている」のはそのためだ。
こうした中でコービン氏は、リモートセンシング・衛星画像・AIなど、普及が進む新たなテクノロジーに期待を寄せている。しかし、「技術的なデータがあるだけでは不十分であり、それを知識として整理し、意思決定を支えるツールに変換する必要がある」とも指摘する。事務局は、データの不足を補うために、地域プラットフォームの構築を進めており、収集したデータをインフォグラフィックや政策ブリーフの形に整理・発信している。それでもなお、能力不足は大きな課題である。
大学や研究機関との連携も重要な優先事項であり、応用研究を通じて汚染源の特定や対策の検証が可能となるほか、学術的なパートナーシップは地域の専門知識の育成にも寄与する。
真の課題は、単にデータを収集することではなく、そのデータを活用して、どこに廃水処理施設を建設すべきか、どの技術を採用すべきか、環境保護と開発目標をどう両立させるかといった意思決定につなげることであると、コービン氏は指摘する。
この点で、カルタヘナ条約はいくつかの成果を上げている。たとえば、各地域の廃水処理インフラに関する評価を通じて、カバー率に大きなギャップがあることが明らかになり、それが各国の投資戦略に直接反映されている。また、プラスチックごみやサルガッサムの大量漂着を衛星画像で監視するパイロット事業も行われており、沿岸地域の住民や観光業者に対する早期警戒の手段として活用されている。
コービン氏が最も重要なポイントとして強調するのは、「データを収集するだけでなく、知見や意思決定支援ツールとしてさらに効果的に活用する」必要性だ。この問題は、国連「海洋の10年」プログラムへの重要な教訓を示している。すなわち、データへの投資だけでは不十分であり、それを誰もが利用でき、実際の政策判断に活用できる知識へと転換することが、真に優先されるべきである。
カルタヘナ条約は、地域的な役割にとどまらず、加盟国が他の関連する多国間環境協定(MEA)で掲げた国際的な約束を履行するうえでも重要な役割を果たしていると、コービン氏は説明する。条約の議定書やプロジェクトは、生物多様性条約(CBD)、持続可能な開発目標(SDGs)、MARPOL条約やバーゼル条約など、汚染対策に関する他の国際的枠組みと整合性を持って設計されている。「私たちは、カルタヘナ条約と他の国際的な環境協定、特にSDGsとの比較分析を行った。確かに多くの部分で高い整合性が見られる」とコービン氏は述べている。
同事務局が、各国政府による複数義務の履行を支援できるのはそのためだ。「技術的支援や能力強化、場合によっては外部資金によるプロジェクトを通じた財政支援を行うことで、加盟国はカルタヘナ条約およびその議定書上の義務を果たすだけでなく、同時にいくつかの国際目標の達成にもつながっている」とコービン氏は説明する。同氏によると、同条約の特別保護地域・野生生物議定書[SPAW議定書](1989年採択、2000年発効)と、生物多様性条約における「30×30目標」(2030年までに陸域および海洋生態系の30%を保全対象とすることを目的とする)コミットメントは関連性が非常に高い。「沿岸部・海洋資源へのストレス要因に対処しなければ、海洋生物多様性の効果的な保全は実現できない」からだ。
カルタヘナ条約は、『国連海洋科学の10年』が提案する海洋汚染プログラムに、明確かつ応用可能な教訓を提示している。
カルタヘナ条約は、海洋汚染のような複雑かつ多面的な課題に対処するプラットフォームとして、地域ガバナンスのポテンシャルを示している。油流出事故への対応から始まり、汚染・生物多様性・生計支援を統合する包括的取り組みへと発展してきた同条約は、法的枠組みに基づきながらも実行面では十分な柔軟性を備えている。ボトムアップのアプローチを通じて地域単位の整合性確保と参加国の当事者意識醸成を両立し、法的義務・自発的協力の組み合わせによって実践的な行動を支援。コービン氏によると、同条約の成功は人同士のつながりの可能性を示すもので、協働が(正式なプロセスというよりも)家族のような信頼関係に基づく時に最も効果的であることを示しているという。しかし、同条約は民間セクターの関与、データ収集能力、ストーリーテリングといった課題も浮き彫りにしている。『国連海洋科学の10年』が提案する海洋汚染プログラムでは、こうした点にも着目する必要があるだろう。
カルタヘナ条約の経験が最も明確に示唆するのは、そのモデル・アプローチが秘めた可能性だ。協働の推進は決して容易ではない。しかし、科学的根拠や法的枠組みに基づき、パートナーシップの後押しを受ける時、その実現可能性は確実に高まる。同条約のモデルを土台とすれば、 “2050年までに汚染のない美しい海を実現する”という野心的目標を国際社会が達成する道筋が見えてくるだろう。
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