海は多くの人に愛される存在だ。海辺での休暇を大切にする、あるいはクジラ・イルカなどの海洋生物が自然環境で戯れる姿を眺めることに喜びを見出す人は少なくない。テレビに映し出される自然ドキュメンタリー番組で、海の驚異に目を奪われる人もいるだろう。政策立案者もこうした視聴者の一人だ。専門家が警告する海洋生物の深刻な脅威に危機感を抱き、生態系劣化の視覚的なエビデンスを目の当たりにして、不安を覚えている。そして今、進行する海洋汚染を記録し、その背景を物語る膨大な科学的知見が手元にあるのだ。

多くの政策立案者は、海の健全性を脅かす問題に対して政府が行動を起こすべきだと強く感じている。たとえば、近年では海洋酸性化(OA)への対応計画を正式に採択する国や地域の政府機関が増えている。しかし、こうした取り組みの多くは、しばしば他の分野――たとえばエネルギー、交通、保健など――の政策との連携を欠き、孤立した試みとして終わってしまうことが少なくない。

また政策が存在する領域でも、優先順位の変化によって計画が頓挫することも珍しくない。その結果、海洋環境の深刻な悪化を示す科学的証拠が豊富に存在するにもかかわらず、行動への推進力は失われてしまう。

海洋酸性化(OA)をはじめ、海を取り巻く脅威については、すでに多くの知見が蓄積されている。それにもかかわらず、現在進められている対策は、そうした脅威を十分に軽減できていないように見えるのはなぜだろうか。私たちが本稿で話を聞いた専門家たちは、その理由の多くが「知識の伝え方」にあると指摘する。すなわち、得られた科学的知見が政策立案者や関係者に効果的に共有されていないのだ。この課題をどう克服できるのかを考えるうえで、「オーシャン・リテラシー(海洋に関する理解)」の取り組みがどのように発展してきたかを振り返ることが、重要な手がかりとなる。

市民・政策立案者と海洋リテラシー:
海洋酸性化の認知向上に向けて

海洋リテラシーとは、海が個人に及ぼす影響、そして個人が海に及ぼす影響についての理解を指す。この定義が示すように、過去20年間にわたる様々な組織の取り組みは、一般市民を主な対象としてきた。しかし近年、海洋リテラシー向上の対象は拡大し、政府機関や各種フォーラム、企業、ジャーナリスト、エコノミストなど、公共政策の形成に影響を及ぼす様々なステークホルダーを含むようになっている。

「10年前、海洋リテラシーは主に学校教育へ海洋科学を取り入れる手段と見なされていた。」海洋リテラシー向上に向けた国際的取り組みの最前線に立つユネスコ政府間海洋学委員会[IOC]のシニア・プログラム・オフィサー Francesca Santoro氏はこう語る。「今日では、ブルーファイナンスや海洋ガバナンスなど、多くの議論で海洋リテラシーが中核的テーマとなっている。」例えばIOCは、企業・政策立案者を対象としたリテラシー“ツールキット”を提供している。また同氏によると、最新の国連海洋会議(2025年6月開催)では、海洋リテラシーの取り組み・目標へ過去にないほど大きな注目が集まったという 。

海洋酸性化の克服に向けた国際連合[The International Alliance to Combat Ocean Acidification=OA Alliance]は、政策立案者や行政担当者を対象とした海洋酸性化関連の知識浸透に、2016年の設立当初から取り組んできた。その成果の一つが、北米・欧州における地方・州・国レベルの機関による18の行動計画の策定支援だ。また現在、同アライアンスは一般市民への海洋酸性化教育を目的とした広報プログラムも立ち上げている。事務局長のJessie Turner氏は、複数の領域で意識向上を図る必要性を指摘する。「人々は海洋酸性化の存在や、炭素排出・気候変動との相関関係を依然として十分理解していない。様々なステークホルダー間で認識を高めることができれば、行動に向けた支持の裾野が広がっていくだろう。」

これら二つの組織が取り組む対象を広げようとしているのは、海の健全性を取り戻すためには、社会全体が一体となって行動する必要があり、そのためには知識の共有をできるだけ広く進めなければならないという認識の表れである。しかし、その知識を「人々の行動を促すかたちで」伝えることは、決して容易ではない。

「10年前、海洋リテラシーは主に、海洋科学の内容を学校教育に取り入れるための手段として捉えられていました。」

―ユネスコ政府間海洋学委員会(IOC)上級プログラム担当官、フランチェスカ・サントーロ

コミュニケーションの壁:
海洋酸性化を伝える難しさ

海に関する知識構築・啓発活動における課題の一つは、(文章だけでなく)視覚的コンテンツも活用しながら、海洋環境破壊の脅威を専門家以外の人々に実感してもらうことだ。深刻な脅威となっている海洋酸性化や貧酸素化は肉眼では見ることができないが、海水の化学変化を通じて海洋生物に大きな影響を及ぼしている。そしてSantoro氏が指摘するように、「目に見えないものを可視化するのは極めて困難」だ。

この課題をさらに複雑にしているのは、こうした脅威の根本に二酸化炭素(CO₂)排出が大きく関わっているという事実である。CO₂は直接的に海水の酸性度を高めるだけでなく、大気と海の温暖化を通じて酸素の減少(脱酸素化)を進行させており、その主因もやはり人間活動による排出にある。「海に吸収されるCO₂の増加や、それによって引き起こされる化学変化は、目に見える形で理解するのが非常に難しいのです」と、Turner氏は語る。「だからこそ、気候変動や海の問題への行動を呼びかける際には、視覚的なツールを補完的に活用することが欠かせません」と指摘する。OA Allianceは2025年6月にデジタルアニメーションを公開し、課題の克服に取り組んでいる(Back to Blueも同様のコンテンツを発表している)。

科学者たちには理解が容易なこうした現象も、政府関係者を含む非専門家には難解だ。そして大規模な海洋汚染対策は、意思決定と予算配分の鍵を握る非専門家の理解が欠かせない。だが科学者は、この点で必ずしも大きな成果を上げられていないのが現状だ。「海洋酸性化とは何か、そしてなぜ重要なのかを伝えるだけでは十分ではない」と指摘するのはTurner氏。「必要なのは、科学者が得意とするこうした取り組みではなく、最も効果的な対策を打ち出すために、政府が何をすべきかを伝えることだ。」

Santoro氏がその担い手として期待をかけるのは、若手科学者たちだ。「私たちが交流を行う若手科学者たちは、科学研究の成果を広く発信することの重要性を理解している」と同氏は語る。IOCは現在、若手海洋専門家向けの研修プログラムを運営している。「彼らが最も興味を示すのは、政策提言や科学コミュニケーションといったスキルだ」という。

Turner氏は、政策担当者への働きかけに向けて“橋渡し役”のような存在が必要だと考えている。海洋科学について十分な知識を持ち、政策という文脈におけるその位置づけを見極められる専門家だ。現在は稀少な存在だが、同氏はこうした人材が将来、政府間政策グループや地域開発銀行といった国際機関から生まれることに期待している。こうした組織では、分野横断的な専門知識が広く活用されているからだ。

同氏によると、こうした“橋渡し役”の存在は、政府関係者にとって最大の関心事である“国民の福祉”と海洋汚染対策を結びつける上で有効だ。「海洋汚染の深刻さを政策立案者に理解させるだけでは不十分だ。さらに一歩踏み込み、国民の福祉—生計・収入・肉体的な健康—への脅威にもなることを納得させる必要がある。」

海洋酸性化における包括的対応の必要性

海洋酸性化・貧酸素化をはじめとする海洋環境の負荷要因を、雇用・経済・公衆衛生とより効果的に結びつけることには、もう一つ重要な狙いがある。それは、政府関係者に包括的アプローチの重要性を理解してもらうことだ。

現在、こうした統合的な取り組みを国家レベルで進めている国は、ほとんど見当たらない。「縦割りの体制は、海洋ガバナンスが抱える最大の課題の一つだ」と指摘するのはSantoro氏。さらに彼女は、海洋科学そのものが分野ごとに区切られがちであることも問題だと付け加える。
「学術界は、異なる専門分野の研究者同士が自然に協働するようには設計されていません。大学や研究機関は、この課題に真正面から取り組む必要があります。これらの問題を本当に理解し、解決へ導くには、分野横断的(トランスディシプリナリー)な視点こそが不可欠なのです。」

「縦割り・細分化は、海洋ガバナンスにおける最大の弱点の一つです。」

―ユネスコ政府間海洋学委員会(IOC)上級プログラム担当官、フランチェスカ・サントーロ

海洋ガバナンスの領域でも同じことが言える。負荷要因の発生原因とその影響は、複数の経済分野(漁業・農業・海運・エネルギー・観光など)と管轄領域(省庁・機関・部局など)にまたがることが多い。例えばTurner氏が指摘するように、海洋酸性化については複数機関が対応を行っているが、効果的対策・コミュニケーションに向けた連携は必ずしも進んでいない。「各組織は、たとえ他の機関の施策と矛盾をきたすことがあったとしても、それぞれの任務を優先しがちだ」という。

「それぞれに自分たちの役割があって、それがいちばん優先される。他の機関の取り組みを後押しすることもあれば、ぶつかってしまい、逆に弱めてしまうこともある。」

―ジェシー・ターナー

こうした分断を克服するには、海洋政策の包括的成果に対する政府全体のコミットメントが必要だ。Turner氏によると、共通の目標が定まれば、海洋酸性化やその他気候関連の負荷要因に対する機関・部局レベルの対策と全体的な政策目標の関連性がより明確になる。また海洋科学コミュニティでも同様の取り組みが必要だ。「科学者たちには、望ましい政策成果との関連性を意識して研究活動に取り組んでもらう必要がある」と同氏は指摘する。

政策的な分断は、海洋汚染克服に向けた国家レベル、および国際的な取り組みにも大きな制約をもたらしている。本シリーズの次回記事では、包括的・体系的な対策推進に向けた意識変革の必要性について取り上げる予定である。

Sign up to the Back to Blue monthly newsletter to receive latest news and research from the programme.