海は地球の生命線だ。何百万もの人々に食料を供給し、生活の糧を与え、私たちが呼吸する酸素を生み出している。しかし今、未処理あるいは処理が不十分な廃水(以下、未処理廃水)が海を汚し、生態系を脅かし、沿岸部の経済に深刻な影響を及ぼしている。細菌や過剰な栄養素、有害な化学物質を含む大量の生活排水が、未処理のまま河川や湖沼に流れ込み、最終的には海にたどり着く。その結果、海の生態系は大きく乱れ、生物が生存できないデッドゾーンが発生し、魚が減少し、生物多様性が失われつつある。健全な海に生計を依存する沿岸部の地域社会・産業は、今や存続の危機に直面しているのだ。

未処理廃水の脅威は、海にとどまらない。陸上環境では農地を劣化させ、下痢などの感染症を拡散し、医療・食料供給体制を圧迫している。

こうした状況を受け、本調査では未処理廃水対策の遅れがもたらす損失を検証。経済的・社会的影響が特に深刻な、漁業・農業・人体の健康という三分野に焦点を当て、廃水汚染の影響を明らかにした。

廃水汚染が経済・生態系にもたらす波及効果

本調査は、未処理廃水対策の遅れがもたらす経済的損失を評価する実験的な試みで、ブラジル・インド・ケニア・フィリピン・英国の5カ国を対象としている。

今回行ったモデル分析によると、未処理廃水がもたらす経済的損失は極めて大きい。低・中所得国に属する対象国では、影響が特に深刻だ。

本調査によって解明された損失は、全体のごく一部だ。例えば、今回漁業セクターについて分析対象となったのは魚の個体数減少のみで、海洋生態系・ツーリズムへの影響は考慮に入れられていない。また農業セクターについては、対象となったのは三つの主要作物に土壌の塩分濃度上昇がもたらす影響のみで、他の汚染物質は除外した。人体の健康についても、水質汚染による発生頻度が最も高い水系感染症である下痢に対象が限られ、その他の感染症は考慮されていない。

漁業セクター:デッドゾーンの発生

未処理廃水が海洋へ流出すると、窒素濃度が上昇し、藻類の異常繁殖を引き起こす。これにより水中の酸素濃度が低下し、生物が生存できない貧酸素水域(デッドゾーン)が形成され、魚の個体数が減少する。こうした汚染の影響は、海洋生態系の破壊や漁業資源の減少につながり、漁業に依存する沿岸部コミュニティの生計を脅かしている。本調査では、生活排水の影響に伴う漁業資源の減少(魚類個体数の減少)を数値化している。

漁業セクターにおける経済価値の減少幅が最も大きかったインド・ケニア(それぞれ年間5.4%・5.1%)は、下水処理率も低い水準にある(21%・11%)。また同セクターの産業規模が大きなブラジルでは、金額ベースの損失が2億ドル[約 312 億円]に上った。

漁業セクターにおける経済的損失(現在の経済価値と比較した割合[%])

“生活排水や陸上環境の表面流出によって水質が低下すれば、その影響は漁業セクターにとどまらない。水質・日光量の変化に敏感なサンゴ礁にも大きな変化をもたらす恐れがあるだろう。また希少な海洋生物が生息する地域では、生活排水やその他の要因による水質汚染が雇用・環境の安定性に複雑な影響を及ぼしかねない。”

Centre for Environment Fisheries and Aquaculture Science[CEFAS] ディレクター Will Le Quesne氏

今回の分析モデルでは考慮対象とならなかったが、生物多様性の保全や観光資源として重要な役割を果たすサンゴ礁は、水質の悪化によりダメージを受けている。サンゴ礁ツーリズムがGDPの40%以上を占めるモルジブ・パラオなどの国では、特に影響が深刻だ。

農業セクター:収穫量の低下

新興国では未処理廃水を灌漑に利用した農地の割合が約10%に上り、作物は亜鉛・クロムなどの有害な重金属、そして過剰な窒素・リンに晒されている。また未処理廃水の長期的使用は土壌の塩分濃度上昇を招き、作物の生産性を著しく低下させる。

水集約作物の多い国々では、塩分濃度上昇や汚染による生産性低下が特に深刻であり、食料安全保障が脅かされている状況だ。

本モデル分析では、各対象国で生産量が最も多い三つの作物に焦点を当て、未処理廃水の灌漑利用に伴う土壌汚染がもたらす収穫量の減少幅を推計することで、経済的影響を数値化した。

ブラジルの農業セクターでは、未処理廃水により年間157億ドル[約2.4兆円]の損失が生じている。次いで影響が大きいインドは、損失額が12億ドル[約1825億円]に達した。その背景にあるのは、農業生産量の高さと土壌汚染に敏感な作物の多さだ。未処理廃水の使用に伴う塩分濃度の上昇は、こうした国々の食料生産体制に危機的状況をもたらしている。

未処理廃水の灌漑利用に伴う土壌汚染と収穫量の損失幅(現在の収穫量と比較した割合[%])

人体の健康:医療費の増加と生産性の低下

未処理廃水は、下痢・コレラ・腸チフスなどの感染症を拡散させるだけでなく、子供の成長阻害や教育成果の低下、医療・経済への長期的負担の増加といった損失の原因となる。

今回のモデル分析では、最も一般的な水系感染症である下痢(大腸菌を原因とする)がもたらす健康被害と生産性への影響に焦点を当てた。即時的な損失としては、入院費用や病気による賃金損失が挙げられる。また長期的には、学校の病欠による損失なども生じ、生産性や地域社会の成長力低下につながっている。

大腸菌を原因とする下痢がもたらす経済的損失(医療費・生産性低下を含む)は、ブラジルで6.3%(1400万ドル[約21億円])、インドでは6.9%(2億4670万ドル[約377億円])に上る。一方、下水処理率の高い英国では、損失がほとんど見られない。

下痢が医療費・生産性にもたらす影響(下痢の治療費用総額と比較した割合[%])

主な論点:

インフラへの早期・予防的投資で経済損失を最小化:対策の遅れは、治療費の増大、環境破壊、生産性低下といった形で経済的損失を悪化させる。下水道インフラや廃水処理施設の整備は、将来的な経済損失を防ぐための効果的な先行投資となる可能性が高い

分散型システムは衛生インフラ格差解消の鍵:大規模インフラが整備されていない地域では、分散型汚水処理システム[DEWATS]や、水再利用の取り組みが現実的な対策となるだろう。こうした取り組みは、衛生環境の改善や水源保護につながるだけでなく、エネルギー回収などの経済的メリットも期待できる

廃水は持続可能な開発資源として活用可能:廃水は有機肥料やバイオガス生成、再生可能エネルギー源として再利用可能だ。投資という枠組みを超え、循環型経済を重視した政策を進めることで、廃水を環境汚染の要因から経済・環境・社会に価値を創出する資源へと転換できる